社会主義者だがマルクス派の
労働価値説に異を唱えたランゲは、新古典派の価格理論を深く信じていた。そしてこの二つを 1938 年の On the Economic Theory of Socialism でうまく融合させて、国家運営の経済は、
自由市場経済と同じくらい――いやそれ以上に――効率よくなれる、と論じた。ランゲは、政府の計画者が
価格機構を市場経済と同じように使い、国家産業の管理者たちに、国家決定の価格に対しパラメータ的に応答する(たとえばコスト最小化等々)ように指示すればこれが可能なのだ、と論じた。ランゲの議論は
オーストリア学派との
社会主義計算論争の焦点となった。
ランゲは
1930年代の
一般均衡理論における"パレート復活"の主導的役割を果たした。
1942年には、
厚生経済学の第一&第二基本定理の初の証明の一つを提示した。一般均衡の安定性分析 (1942, 1944) を創始した。
貨幣数量説批判(1942) は、生徒の
ドン・パティンキンにヒントを与えて、貨幣/マネーを一般均衡理論に「統合」しためざましい研究につながった。ランゲはまた、
新ケインズ派総合にもいくつか重要な貢献をしている (たとえば 1938, 1943, 1944)。
ポーランドの
スターリン主義的政府との密接な関係や、その政府の代弁者として政治活動をしてきたことが、その経済学研究と、そして経済学界における評判の両方をむしばむことになる。特に、スターリンを「経済理論家」として各種の論文を書き (たとえば 1953) 、経済学者仲間から糾弾さた。それでもランゲは、自分を社会主義活動家にしてマルクス派経済学者以外の何物とも思っていなかった。
新古典派経済学は常に計算ツールであって、イデオロギーのツールではなかった。ランゲはその余生を、新古典派価格理論をソヴィエト式経済計画の実践に統合することと、古典派と新古典派経済学を一本の理論体系に統合することに費やした (たとえば 1959)。晩年は、
サイバネティクスと
コンピュータを経済計画に使う研究をしていた。