1117年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため国内でも有名であった。アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れていた2人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラブが生まれた。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚をした。しかし叔父が和解の条件を守らないことやエロイーズを虐待することなどから、エロイーズを
アルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、局部を切断させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(後出の第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
アベラールは学問においては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思えば己の師ですら罵倒し、論破した。この性格のため、碩学であったが多くの敵対者を生んだ。サン・ドニでは当時修道院で信じられていた、修道院の創設者聖ドニ(デニス)が『
使徒行伝』のアテナイのディニュシオスであるという通説を論破して修道士たちを激怒させた。この頃アベラールは『三位性と一位性について』を著し独自の三位一体解釈を行ったが、これはソワッソン公会議(
1121年)で問題とされ、その教説は
異端宣告を受けた。そのため、パラクレトゥス聖堂に移ると修道院付属学校を自ら開いて教え、
1125年には招かれて
ブルターニュのサン・ジルダ・ド・リュイ修道院の院長となった(のちにエロイーズはパラクレトゥス聖堂の敷地内に女子修道院を建てて院長となった。)
1132年頃、エロイーズとの恋などを記した自伝的な書簡を友人あてに記した。