9世紀から(または1世紀早く8世紀とも)、コムーネは司教ら支配権をもぎ取り、イタリア都市国家が自主権をもつ例の一つとなった。これはイタリアにおける都市の最初の復興を合図したものだった。フォルリは889年に初めて共和制をとった。
教皇派と皇帝派の間で起きた中世の争いでは、フォルリは自主性を保持する意味で皇帝派にたった。イタリアでは
神聖ローマ帝国を都市が支援することは全て危険であった。最もどう猛なライバルは
ファエンツァ、
ボローニャであった。これらの数世紀、教皇は、時には暴力で、時には餌をちらつかせ、何度もフォルリの支配権を握ろうとした。
さらに本質的な地元フォルリでの競争は、愛国者の間に巻き起こった。1241年、
フリードリヒ2世と教皇
グレゴリウス9世が争っている間、フォルリ市民は支援をフリードリヒ2世に対し提供した。皇帝はフォルリのライバルであるファエンツァを占領している最中であり、皇帝は謝意としてフォルリに
ホーエンシュタウフェン家のワシのついたコムーネの紋章を増加、そしてその他に特権を与えた。ホーエンシュタウフェン家の権力が1257年に崩壊すると、忠実な皇帝の司令官
グイド1世・ダ・モンテフェルトロが、イタリアに唯一残っていた皇帝派の砦であるフォルリに待避しようとした。彼は民衆隊長(
capitano del popolo)の地位を与えられ、フォルリのためにいくつか名の知られる勝利を獲得した。1275年6月15日ポンテ・ディ・サン・プロコロでの対ボローニャ戦、1276年11月14日
チヴィテッラにおける、
フィレンツェ軍を含む対教皇同盟軍との戦いなどである。フォルリ自身は、
マルティヌス4世が送り込んだ強力なフランス遠征軍と1282年5月15日に戦った。ダンテ・アリギエーリがこの戦いを引用している(彼は1303年にスカルペッタ・オルデラッフィ3世によりフォルリでもてなしをうけた)。1282年、フォルリ軍はグイド・ダ・モンテフェルトロに率いられていた。有名な占星術師グイド・ボナッティ(フリードリヒ2世の助言者の一人)は、モンテフェルトロの助言者でもあった。