1923年にLSEを卒業後は
ウィリアム・ベヴァリッジの研究助手を務め、また講師として
オックスフォード大学のニュー・カレッジへと赴いた。
1925年になってLSEの教授陣に正式に名を連ね、
1929年には経済学部長に就任、以降
1961年に辞職するまで経済学部長の任にあった。予てよりオーストリア学派にも理解を持っていたロビンズは、学部長に就任して初めての人事でフリードリヒ・ハイエクをLSEに招聘した。またこの時期のLSEには学生或いは若手の研究者として
ジョン・ヒックス、
ニコラス・カルドア、
アバ・ラーナー、
ティボール・シトフスキーといった人物が在籍しており、彼らもまた数学的に洗練された大陸ヨーロッパの経済学に多大な影響を受けていた。こうしたロビンズの大陸の経済学の積極的な移入と新しい世代の活躍により、LSEはイギリスにおけるローザンヌ学派など大陸の伝統を汲む
新古典派経済学の拠点となった。またこの時期にはロビンズ自身を含めLSEの経済学者は主にケンブリッジ大学を拠点としたマーシャル派の経済学者と積極的に論争を繰り広げた。例えば景気循環を巡るハイエクとジョン・メイナード・ケインズの論争や、ロビンズと
アーサー・セシル・ピグーとの間の
効用の個人間比較に関する論争は有名である。ロビンズとLSEは論争を通じて自らの主張を定着させ、イギリスの経済学界における変化をもたらしたが、その影響はイギリスに留まらず英語圏の諸国にも及んだ。とりわけ
アメリカにあって
フランク・ナイトはロビンズに影響を受け、大陸ヨーロッパの新古典派を摂取して(第1期)
シカゴ学派を確立した。