そうしたなか、司祭に扇動されて30万人動員令に基づく義勇兵を決めるくじ引きが予定されていた
1793年3月11日、
メーヌ=エ=ロワール県ショレの人々が決起、各地の農民も蜂起し、わずか10日余りの間にフランス西部の3分の2の地域で騒乱状態となった。指導者にはそれぞれ
軍人である地方貴族を担ぎ上げて、各地の反乱軍と合流しながら政府軍を打ち破り、ヴァンデ地方を支配下に置いた。
国民公会は3月19日、「武器を所有している反乱者全員を処刑し、その財産を没収する」という厳しい処置を取ったが、国境に国民衛兵を送っているため兵力が不足しており、鎮圧することができなかった。反乱軍は次第に力を持ち始め、政府が国境の軍隊を配備しても、思うような成果はあげられなかった。
そうしたなか8月に
国民公会は革命政府軍にヴァンデの破壊命令を出す。指令は、「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」というものであった。それを受けて政府軍は森林、畑、家、教会を荒らし、人間を無差別に殺害した。一方、反乱軍では退却後、カトリノーの死の影響が大きく離脱者が続出し統制が取れなくなっていた。
英仏海峡を目指して転進したが、グランヴィルの前面で退けられ、敗退を続け、食糧もなく疫病が流行り士気も低下した。にもかかわらず政府軍の無差別攻撃により逃げ出してきた村民をも含め10余万人にも膨れ上がってしまった。彼らは遂に諦めて故郷に帰ろうと
ロワール川を越えて北上したが、
サヴォネーの町での戦闘で壊滅した。
捕虜になった者はナントに連行され、ロワール川に浮かぶ廃船に積み込まれて沈められた。
その後も政府は「
地獄部隊」と名付けられた連隊を派遣し、同様の作戦を続けたため、ヴァンデ地方では反乱は小規模な
ゲリラ戦に形を変え続いたが、1794年に反乱鎮圧に派遣された
ルイ=ラザール・オッシュが軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、農民が反乱に加わったのは 宗教的自由のためであって、寛容政策をとれば彼らは王党派反乱から離脱するだろうということを発見。この政策変更で、1795年2月までに功を奏してヴァンデ反乱軍は瓦解し始める。同年6月15日、
イギリスの支援で王党派部隊がギブロンに上陸したが、撃退されて大半が捕虜になりヴァンデ反乱軍は致命的な一撃を受けた。執拗にゲリラ戦を続けていた最後の生き残りの指導者
シャレットも検挙されて銃殺された。オッシュは1796年までにヴァンデ地方の平定を宣言。
1801年には、ナポレオンが
ローマ教皇と和解し、ヴァンデに対して数々の復興の政策を講じることでこの反乱は完全に終結した。