しかし、共和政ローマの統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのにふさわしいものではなかった。没落した
農民が多数ローマに流入して、都市ローマの人口は膨れあがり、貧しい住民はしばしば饑餓に陥った。
無産者となった彼らはしばしば「
パンとサーカス」を要求した。そのいっぽうで、征服地の拡大とともに、ローマは征服地の一部を公有地としつつも、
貴族にその占有を許可した。貴族は、
属州(プロウィンキア)からの安価な
穀物や
果実の流入と
奴隷労働力の流入によって没落してゆく農民の土地もあわせて大農場経営(
ラティフンディウム)をおこなった。属州では、
徴税請負人(プブリカーニ)が州
総督とむすんで国家に納める税以上の負担を属州民から搾り取った。また、従来は土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制も危機に瀕していた。重装歩兵にかわって無産者や属州民の
傭兵が軍の主力をなすに至ったのである。元老院は領土が拡大されるたびに制度改良をおこなって、このような諸問題に対処してきたが、元来が都市規模の国家を統治するためのシステムを踏襲してきたため、そうした改革にも限界があった。
腐敗した共和政を改革すべく、
民衆派(ポプラレス)の
ティベリウス・グラックスが
護民官としてセンプロニウス農地法(
リキニウス法)を実行に移して、大土地所有の制限や無産農民の土地分配を図るなど社会再建にむけた制度改革を推進したが、その過程で元老院と対立し、
紀元前133年、志半ばにして支持者たちとともに非業の死を遂げた。ここに、ローマ市で市民同士が血を流して争う事態となり、これよりほぼ100年間、ローマでは「
内乱の一世紀」と呼ばれる
内乱状態がつづくこととなる。
紀元前121年、兄の志を継がんとした弟の
ガイウス・グラックスもまた元老院と対立し失脚、数千人といわれる支持者たちもまた
処刑された。この
グラックス兄弟の死と改革の頓挫によって共和政ローマの混迷は決定的なものとなった。それは、法の無力、実力時代の到来を示すできごとであったのである。