後漢に服属した南匈奴の
単于の末裔である
劉淵は晋から匈奴の五部大都督に任じられていたが、
八王の乱が起きると自らの国を建て、国号を漢とした。劉淵は息子の
劉聡、親族の
劉曜、羯族の石勒などを従えて
并州を攻略した。この劉氏は
高祖の系統である
後漢及び
蜀漢の後継者と自負していたが、実際には両者の末裔を間接的に殺害している(山陽公を継いでいた
劉秋の死により、後漢王室直系の子孫は絶えた。また、蜀漢の
劉備の子孫は、
成蜀に逃れた
劉玄のみ生き延びて、
永嘉の乱に巻き込まれて殆ど
絶滅したという)。
310年に劉淵が死ぬといったん、長男の
劉和が継いだ。だが、
暴君の劉和には人望が無く、その弟の
楚王の劉聡(三男)が謀反を起こした。新皇帝の劉和は母方の叔父の
呼延攸と共に劉聡と内通した部下によって殺された。その後を継いだ劉聡は、翌年に晋の首都
洛陽を陥落させ、
懐帝を捕らえた(
永嘉の乱)。晋は
長安に
愍帝を擁立して、前趙に抵抗するが、劉聡は長安を陥落させ、愍帝を捕らえた。これにより西晋は滅亡し、これ以降は
五胡十六国時代と呼ばれる。