宇文泰の四男で母方の叔父にあたる
北周の
武帝に特に可愛がられ、宮中で養育された。ときに
突厥の
阿史那氏が武帝の皇后となったが、寵愛されることがなかった。竇氏は「四辺は静まらず、突厥は強盛です。叔父上も感情を抑えて慰撫なさいませ。突厥の助けがあれば、江南の
陳も関東の
北斉も患いとはなりますまい」と諫めた。武帝は喜んで聞き入れた。武帝が亡くなると、実父を失ったかのように悲しんだ。
隋の
文帝(楊堅)が帝位につくと、床に突っ伏して「わたしが男子でないのが恨めしい。叔父上の家の禍を救えないとは」と嘆いた。竇毅は彼女の口を急いでふさいで、「妄言してはいけない。われら一族が滅ぼされるぞ」と言った。竇毅はいつも「この娘は才能も容貌もこのとおりであり、みだりに人にとつがせてはいけない。賢い夫を求めるべきだ」と襄陽長公主に言っていた。門の屏の間に二羽の孔雀を描き、求婚する諸公子に二本の矢を射させて、目に当てることができた者に彼女をとつがせると約束した。射る者は数十を数えたが、みな当てられなかった。祖父の
李虎の時代から費也頭と縁の深かった李淵が最後に射たところ、おのおの一目に当てたので、李淵にとつぐことになった。このことが後に隋末の動乱時に、李淵と太穆竇皇后と彼の間の子らが、いち早く費也頭の強大な軍事力と結びついて長安を押さえ、唐朝を樹立する上で大きな力になったとされる。
李淵の母の元貞太后は老いて病となったが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて、介護しようとしなかった。竇夫人ひとりだけがつつましく元貞太后に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った。竇夫人は文章が得意で、文体は雅であった。また書をよくし、李淵と書をならべたとき、世の人は論評することができなかったという。