全国三部会において、議決方法などをめぐる
第三身分(
平民)と第一・二身分(
聖職者、
貴族)との対立が深まった。そのため、第三身分(彼ら自身は
コミューンと称した)は、
1789年6月17日に
アベ・シェイエスのもとで国民議会の成立を宣言した。しかし、下級聖職者らが合流に合意したほかは特権階級の支持をえることができず、国王政府も国民議会の
弾圧を図った。これに対して国民議会の勢力は屈服せず、
6月20日の「
球戯場の誓い」などを通じて徹底抗戦の構えをとった。国民議会と国王政府の深刻な対立を懸念した
国王も、国民議会を承認せざるをえなくなり、聖職者の多くと貴族の一部が国民議会に合流した。その後、国王の勧告に従って残りの勢力も国民議会に加わり、混乱は一旦収拾された。
7月9日には憲法制定国民議会と改称され、憲法制定の準備を行うことになった。
7月14日に起こった
バスティーユ牢獄への襲撃により
革命が勃発し、革命が各地の
農村へ波及すると、
領主への
暴動などが各地で勃発した。この暴動によって、特権身分である貴族・聖職者の多くが
亡命し、
アンシャン・レジームが崩壊した。この無秩序な武力蜂起は、特権身分の権力どころか国民議会まで否定しかねないものであり、議会はこの事態の収拾に乗り出すことになった。
8月11日に示された
法令で
封建制の廃止を定めて事態を沈静化させたが、
領主裁判権をはじめとした人格的支配を否定したのみで、地代廃止などの措置はとられなかった。この封建制廃止とあわせて、
8月26日に
フランス人権宣言(正しくは「人間及び市民の権利の宣言」)を定められた。これによって、これまでの
身分制社会の枠組みが完全に否定され、基本的
人権を有し、
自由かつ
権利において
平等な
市民によって構成される
市民社会の諸原則が確認された。これらの国民議会の決定は、国王政府の認めるところではなかったが、すでにアンシャン・レジームの崩壊によって国王政府の
権力は限界に達しており、対抗策を打ち出すことが出来なかった。国王
ルイ16世も、王妃や王弟に国王政府の権限を握られており、
絶対王政はここに終わったと言える。国民議会は、こうした法令を制定して行くことで、国王政府に代わり国家の
主権者としての地位を確立していった。
6月末にフランス国王一家が
オーストリアへ逃亡を図る事件(
ヴァレンヌ逃亡事件)が起こり、議会はその対応に追われることになった。革命の急進化を恐れた当時の議会多数派はこれを国王の
誘拐事件であると偽ったが、このことが
民衆の反発を招き、大規模な反
ブルボン家・反議会運動が
パリで引き起こされた。これに対して
政府は武力鎮圧の挙にでて事態が収拾された。この対応をめぐり、早期に革命を収拾しようとする勢力(
フイヤン派)と、より急進的な勢力へと内部での分裂が深化する。こうした中、
9月3日にフランス初の憲法(
1791年憲法)が可決された。この憲法はまもなく国王ルイ16世によって承認され、
9月末に議会は解散された。フイヤン派にとっては、このことは革命の終了を意味していたが、革命はこれからさらに急進化していくことになる。