ついで、いわゆる「
寛政異学の禁」により幕府の教学政策として
朱子学が奨励され、その一環として
林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、
1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から
尾藤二洲・
古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
昌平黌は幕末期においては洋学の
開成所、医学(西洋医学)の
医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱にさいして一時閉鎖、その後新政府に接収され
慶応4年6月29日(
1868年8月17日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧
皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「
大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年7月12日(
1870年8月8日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ
東京開成学校・
東京医学校が
東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足にさいし(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しかもちえなかったのである。