武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったこと、元来武蔵国が北隣の
上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であった(
武蔵国造の乱を参照のこと)ため、当初の東海道は相模国の
三浦半島から海路で
房総半島の
上総国(
安房国分立は
718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。現・
千葉県にある安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と
下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。
武蔵国はその後、各道に派遣された官人が諸国を巡察する際、上野国新田驛から武蔵国府(この間5驛)を経た後に下野国へと逆戻りする旅程より相模国から武蔵国を経て下総国府(この間4驛)へと周る旅程の方が便利であり公私に亘り都合良いとの判断から、太政官の奏上を天皇が許可することによって
771年(宝亀2年)旧
10月27日に東海道経路に組み入れられた(
続日本紀)。当書の中で「東海道」と呼ばれており、呼称の由来については、同書に「東海道に属する諸国の往来の大道を海道と称す」とある。