「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体と精神の鍛錬と
教育を目的としている(講道館師範嘉納治五郎先生遺訓「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由つて身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由つて己を完成し世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。」)。広く各国で普及し、
オリンピック種目にもなっている。国際競技団体は
国際柔道連盟(
IJF)である。
もっとも「柔道」という語自体は、すでに江戸時代に起倒流五代目・滝野専右衛門遊軒の弟子である鈴木清兵衛が、起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ、柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称しているので、嘉納の発明ではない[菊池智之「松平定信の武芸思想に関する一考察-新甲乙流への道程-」『武道学研究』第23巻第3号、1991年3月、pp.10-23]。
当初、講道館は新興柔術の少数派の一派であった。嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年(昭和3年)『作興』に連載)によれば、
警視庁武術大会で楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。なお、当時の柔道は当て身が存在したことなど、柔術の影響が極めて大きく、現在のそれとは大きく異なったものである。また、本大会において講道館選手として出場した者は、元々は他流柔術の実力者であった。この試合の後、
三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記(雑誌『
キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に
講道館四天王の
西郷四郎(小説「
姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に
山嵐で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある。)。