師都は、朔方郡の豪族の家に生まれた。隋に仕えて鷹揚府郎将となった。
大業末年、辞任して帰郷し、数十人の人々と結んで隋に反抗し、朔方郡丞の唐世宗を殺し、郡に拠って大丞相を称し、北の
突厥と同盟した。隋の張世隆の攻撃を撃退し、彫陰・弘化・
延安を攻略した。梁国を建てて、
皇帝を僭称し、
永隆と元号を立てた。突厥の
始畢可汗により大度毘伽可汗・解事天子の号を受け、突厥の兵を率いて
オルドスの地に盤踞し、塩川郡を抜いた。
620年、
劉武周が唐に敗れた後、師都の部将の張挙・劉旻は唐に降った。師都は尚書の陸季覧を突厥の
処羅可汗のもとに送り、「隋が滅び、中国は四分五裂して、群小はみな争って突厥につきました。しかし今唐が劉武周を滅ぼし、国は強大化しています。師都は旦夕のうちにも滅び、次にはまた可汗にも及びましょう。可汗には
魏の
孝文帝の故事のように、兵を南にお出しになり、師都を道案内とするようお願いします」と説かせた。処羅可汗はこれを聞き入れ、莫賀咄設を五原に入らせ、泥歩設と師都を延州に向かわせて、処羅可汗自身は太原を攻め、
突利可汗と
奚・?・
契丹・
靺鞨には幽州道で合流させ、
竇建徳には?口から晋州・絳州で合流させることとした。しかしときに処羅可汗が亡くなり、突厥の兵は出されることなく、師都はまた段徳操に破れた。