室町時代の
清原宣賢は、
吉田神社詞官神道家
吉田兼倶の3男だったが、明経博士だった清原家に養子として入った。宣賢は宮中に仕えて講義を行い、
明経道を整理して多くの
国学、
儒学の論文著作をおこなった。
享禄2年(
1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作がある。彼の著作物は現在も多く残されており、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は4代後の秀賢から
舟橋家を称したため、清原宣賢を「船橋
大外記宣賢」と記した
史料もある。