慶応4年(
1868年)4月、江戸幕府の解体により成立した明治新政府は、
政体書において地方制度では大名領を藩とし、大名を
知事に任命して諸大名統治のかたちを残す
府藩県三部制を確立する。10月には藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け、政府による藩統制を行う。翌明治2年(1869年)1月に新政府樹立に貢献した
薩摩藩、
長州藩、
土佐藩、
肥前藩が建白書を提出し、同年5月には上局、
公議所において諮問が行われて実施され、同年9月には藩制布告が行われる。明治4年(
1871年)には薩長土を主体とする
御親兵とする軍事力を持って
廃藩置県を行い、
府県制が確立する。
版籍奉還は次の廃藩置県までの過渡的措置であるが、当時藩に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない
太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとしたのである。だが、
藩主が非世襲の
知藩事に変わり(ただし、実際には事実上の
改易処分を受けた
福岡藩などの例外を除いては、
世襲の後継者がそのまま後任とされている)、
陪臣である藩士も知藩事と同じ
朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で、
朱子学に基づいた
武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。そこで、版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。更に前後して
戊辰戦争の
恩賞である
賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らしたのである。このため、藩の中には「
将軍の代替わりに伴う
知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わったのである。
なお、藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われがちだが、厳密には、江戸幕府下の体制で公式に「
藩」という呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみであった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称することが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが、廃藩置県で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。