物集高見 wikipedia|無料辞書
◆経歴
父は国学者
物集高世で、高見はその二男三女の長男として
豊後国(現、
大分県)速見郡杵築北新町に生まれる。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。
明治2年(
1869年)に上京。明治3年(
1870年)5月、
平田銕胤(明治13年没、年82)門に入り国学を、また神祇官職員の
東條琴臺(明治11年没、年84)に師事して漢学を修める。同年から神祇官の宣教史生の職を得た。
明治4年(
1871年)24歳からは洋学も修める。明治5年(
1872年)から教部省に出仕する(中録十等)。職務のかたわら辞書編纂を企画した。また「本邦語源考」「事物名義考」の研究発表もしている。高見の言語に対する興味はこの頃からあった。
明治28年(
1895年)49歳の高見は勲六等瑞宝章を賜る。
明治32年(
1899年)3月、
文学博士となる。同年4月、東京帝国大学文科大学の
井上哲次郎の勧告で
大学を退官。背景には、門人
上田万年との文学論争をきっかけとする、上田とその弟子たちによる追い出し工作があった。高見はこのことを深く恨み、息子高量に向かって「上田の家は
小石川伝通院にあるが、決してその前を通ってはならぬ」と命じていた。辞職直後は、乱れた心を鎮めるため、自宅で
習字ばかりしていたとも伝えられている。
以後は私財を注ぎ込んで在野の学者として研究に没頭し、貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した。「
広文庫」全20巻の内の第1巻を大正5年(
1916年)に広文庫刊行会より刊行、大正7年(
1918年)には全巻の刊行を終る。1916年〜1917年に全3巻の「群書索引」を刊行して
ベストセラーとなった。