当日建成は宮中に参内することになっていた。緊迫した情勢の中警備兵に守られていた建成であるが、宮殿内部は
符籍を有した者しか入ることが許されていなっかため、少数の供者を引き連れて中に入ると、世民側に寝返っていた
常何らが一斉に切りかかかった。その中、建成の幕臣である
馮立と、皇太子派の李元吉の幕臣である
謝叔方が奮戦、世民の部下である
呂衡の首代を上げるなどの抵抗を示したが、結局建成と元吉は殺害されてしまった。
呉兢の著した『
貞観政要』によれば、太宗は即位後、馮立と謝叔方の2人を取り立てている。太宗は玄武門後に建成の幕臣であった
魏徴を召し出し今回の件を譴責したが、これに対し堂々と持論を述べた態度に敬意を表し、
諫議大夫に抜擢し、寝所への出入りを許し政治方針の相談を行ったとある。これは太宗の寛容さを示すためのパフォーマンスとも考えられるが、何れにせよ後継者争いを政争とせずに、宗家の問題として処理し、事件により有能な人材を失わなかった事は評価されるべきであろう。