しかし、皇帝である元帝は、政治・軍事の両面で、琅邪王氏の存在が大きくなることを警戒するようになり、
劉隗・
刁協らを重用して、王導の政治力を排除しようとした。
322年、
大将軍となっていた王敦は、元帝のこのような動きに不満を持ち、劉隗・刁協の打倒を名目に
武昌で挙兵した(
王敦の乱)。この時、首都
建康にいた王導は、劉隗により反乱者の同族として処刑されかけるが、
周?の取りなしにより事なきを得ている。同年、元帝は死去して
明帝が即位し、
324年、
蘇峻らによって王敦の反乱は鎮圧されるが、王導は失脚することなく政治を執り続けた。
325年、明帝が死去し
成帝が即位すると、王導は
司徒として
中書令の庾亮と共に政治を任されることになった。成帝の外戚であった庾亮は、当時王導をしのぐ権勢を誇り、北来の貴族と江南土着の豪族との間のバランスを重視する王導の政治方針に変えて、厳格な法治主義によって皇帝の権威を強化しようと考えるが、
327年、蘇峻が庾亮打倒を名目に反乱を起こす事態を招いてしまう(
蘇峻の乱)。
329年に反乱が鎮圧されると、庾亮は中書令を辞して地方に鎮したので、再び王導が単独で政治を執ることになった。後に庾亮は王導の施政が寛厚すぎるとして、挙兵して王導を廃そうと考えたが、
郗鑒の賛同が得られず挙兵をとどまった。ある者がそのことを王導に伝えたが、王導は「自分と庾亮は、国家のために喜憂をともにしている。だからもし彼が、自分を不義不忠の者として攻めてくるのなら、自分は潔く官を辞して隠居しよう。何も恐れることはない」と語ったという。