永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(当時は木下弥助)の長男として生まれる。
織田信長の
浅井攻めに際し、
宮部継潤に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。その後、信長が開始した
四国征伐において、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時
阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子として送り込まれ、
三好信吉と名乗る。
天正10年(
1582年)6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。
領内の統治でも善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。これは
田中吉政など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっており、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。