軍人皇帝 wikipedia|無料辞書
元老院が容認した皇帝だけでも、前半の33年間(235年-268年)に14人の皇帝が擁立され、結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国は弱体化した。
◆ 原因
古代ローマにおいては
共和政の時代より、国家の最高指導者がすなわち前線に立つ
軍司令官であった。共和政の時代においては、2人の
執政官がこの役目を担った。執政官が2人であることからひとりは軍司令官として前線に赴いても、もうひとりの執政官が内政を執ることができ、また2人の執政官が同時に軍司令官として前線に立たねばならない場合にも、代わって内政を担当するのは誰であるかの序列も決まっていた。1年の任期があった執政官は、軍司令官として無能な者であれば再選はされず、このシステムは問題無く機能した。
しかしながら
帝政以降、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムには弊害が見られるようになったが、終身の存在である皇帝は、おいそれと更迭ができる存在ではなく、軍司令官として無能さを露呈した皇帝を排除するには、叛乱・クーデター・暗殺という非合法な強硬手段に出る以外に選択肢が無くなってしまったのである。また軍司令官である以上、戦死・敵の捕虜になるという事態は、当然のこととして起こり得るものであり、その度に皇帝を選び直さなくてはならない事態が生じた。また選出手段が決まっていた(市民集会の選挙)執政官と違い、皇帝の場合は選出手段が定められておらず、これも混乱の原因となった。
そしてこの時代に先立つ
カラカラ帝の
アントニヌス勅令によってそれまでの税制が破綻する。そしての外敵の侵攻によって国土は荒廃して経済も低下、そういった悪循環が止まらない時代であった。
◆ 特徴
特徴として、彼らは以前の皇帝とは異なり、擁立が主に軍の軍事力を背景とした
クーデターによることが挙げられる。軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝である
マクシミヌス・トラクスは
トラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力もまた兵士たちのみであった。また元老院はこの時代には軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となり、よって地方の軍隊によって推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官が乱立した。前線で戦う兵士たちにとって、軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは死活問題であり、元老院としても国家防衛を皇帝に委ねる以上、これを承認する以外に無かったのである。
しかし軍人皇帝たちのほとんどはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替があるたびに国境防衛に空白が生じ、防衛能力の弱体化を招いた。そのため
ゲルマン人の侵入を容易にし、結果として
アウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。皇帝の資格は配下の軍事力とともに、兵士によって擁立されるため兵士を雇う能力にあり、これがなくなると兵士の支持をまたたく間に失い、剣で取った権力を剣によって失うことになった。このたびに先人のローマ人たちが築いてきた数々の公共事業-ローマの街道やローマ領内での安全性が劣悪になった。また、それぞれの戦線において、兵士たちがそれぞれ皇帝を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる内乱も生じた。
◆ 後代への影響
軍人皇帝時代は皇帝の背景には軍事力が欠かせない要素ではあったが、その後の皇帝には軍事色が薄くなっていく。
ドミナートゥスへと帝政を転換させたディオクレティアヌスや
コンスタンティヌス1世などは皇帝権力を強化し、自らも兵を率いたが、その後は軍務は例えば
スティリコのように
マギステル・ミリトゥム(軍司令官)が行い、彼らが帝国の運営の担い手となってゆく。そして
西ローマ帝国では皇帝は
ホノリウス帝のように権威色が帯びるものの実際の政治的主導権は一層薄い存在となっていき、最後には傭兵隊長の
オドアケルによって西ローマ皇帝は廃されてしまうことになった。
◆ 軍人皇帝一覧