「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかには諸説あるが、
平安時代初期の
延暦〜
弘仁年間説が有力であると言われている。この時期には
安倍兄雄(?-808、御主人の玄孫、
平城天皇時代の
参議)、
安倍安仁(793-859、引田臣系傍流、
仁明天皇時代の
大納言・
右近衛大将)という二人の有力高官を出している。だが、その後の活躍はやはり兄雄の6代目の子孫とされている
安倍晴明の活躍する平安中期にまで降ってしまう。晴明以後、安倍氏が
賀茂氏とともに天文と陰陽道を司ったというのは著名な話であるが、官位的には晴明も息子
吉平(954-1027)も最終的には
従四位上であって、先祖である兄雄と比べれば格下であるのは明白である。その後、
長男時親は
天文密奏宣旨授与者、次男
章親は
天文博士、3男
奉親は
天文権博士と
天文道に関する地位を独占した。以後、代々
天文博士・
陰陽頭に任じられたが、その一方でその地位や学説を巡る一族間の対立も激化していき、時親の子
有行を祖とし孫の
泰親に引き継がれた家系、同じく時親の子
国随を祖とし孫の
晴道に引き継がれた家系、時親の弟奉親を祖とし曾孫の
広賢引き継がれた家系の3系統に分立して激しく争った。